刀の普及ついてブログを書いていて、元寇以前の刀は、武将の体裁をつくろうための一種のアクセサリーで(中略)鎧兜の上から切りつけることはとうてい不可能であった(http://www.n-p-s.net/history5.htm)という見解を引用した。
どうも元寇以降から現在に至って作刀された多くの刀も、鎧兜(よろいかぶと)の上から切りつけるようなことはできないみたいだ。近代になってからも兜割りという催しが行われたことがあるらしい。天皇陛下の御前なので、それなりの刀が用いられている筈だろうけど兜に跳ね返されたりしたらしい~素人からみると折れたり曲がったりしたのでなかったのなら使い手の腕の問題だった可能性もあるような感じもする。そのなかで唯一、兜を斬り裂いたのは同田貫(どうたぬき)だったらしい。
このように兜を斬り裂くことができる刀は斬鉄剣(ざんてつけん)と称して他の刀とは区別されているみたいだ~マンガや小説に斬鉄剣がでてくることがあるらしいけど本来の斬鉄剣は鉄をスパスパと切れる刀ではないみたいだ。
同田貫(どうたぬき)は鎧通しのように重ねが厚い刀らしい。鎧兜を貫通するような重ねの厚い刀が作刀されていることから、刀が実戦に用いられていたことが推測できる。鎧通しは鎧を斬るのではなく突くみたいだ~斬鉄剣以外の刀でも突くことで鎧を貫通できるかもしれない。
柄(つか・刀を持つところ)の構造からサーベルは片手で、日本刀は両手でホールドするみたいだ。棟打ち(峰打ち)だと刀が折れたり曲がったりし易いらしい。実戦では直線ではなく曲線で突いていたので、刀の形状が反(そ)っているのかもしれない。
室町時代にそれ以前よりも大量に鉄が生産されるようになっていたことから、室町時代にはそれまでよりも大量に作刀されたことが推測できるとしたけれども、室町時代もそうだけど、そのずっと以前からも日本は多量の鉄を輸入していてたみたいだ。
後鳥羽上皇の御番鍛冶の直前まで、日本刀は異なる炭素量が不均質に分布する丸鍛えが大半を占めていたらしい(作刀は古刀が目指されているらしい?)~専門家は古刀全般に心鉄を使わなかったと断言は出来ないと言っているらしい。
どうも古刀では、心鉄を皮鉄でくるむ構造の刀は殆ど無いか全く無いみたいだ。これは後に、作刀の技術が進歩して心鉄を皮鉄でくるむようになった可能性もある。心鉄を皮鉄でくるむ方法は、甲伏(こうぶせ)、本三枚(ほんさんまい)、四方詰(しほうづめ)など刀工によって様々らしい。現在でも、鎌倉時代の頃の製鉄の技術は解明されていないらしい。大量の需要に応える為などの理由で(古式の)たたらによる製鉄技術の伝承が途絶えてしまい、心鉄を皮鉄でくるむ構造にすることでそれまでのように折れずらく曲がりにくい刀を作刀することができた可能性もあるかもしれない。
心鉄と皮鉄による複合構造の刀と、不均質鋼のように炭素量が不均質に分布して軟鉄~硬鉄が分布している構造の刀では、どちらが刀として優れているのかはわからない。
ダマスカス刀剣では心鉄ではなく、また不均質鋼のようにでもなく軟鉄と硬鉄を幾重にも重ねるようにした造り込みになっているみたいだ~日本の古刀のなかにも不均質鋼というよりも軟鉄と硬鉄を何度か折り返して鍛練したような構造の刀もあるみたいだ~もちろん古刀のそれはダマスカス刀剣や現代刀のようなくっきりとした造り込みではない感じだ。
(後書)
ダマスカス刀剣のような紋様の包丁が日本橋の老舗の包丁店で扱われていて、1万円程度のおみやげとして人気があるらしい。
また数十万円程度の価格で、ダマスカス鋼を用いて製造されたダマスカス刀剣のような紋様の刃物も扱っているらしい。
ダマスカス刀剣のように目立たないけれど、打ち返しを行っている日本刀にも肌目があり、日本刀の肌目は幾つかの種類に分類されていて、その種類のなかには(綾杉肌のように)ダマスカス刀剣と似ている紋様の肌目の日本刀が分類されているらしい。~このように日本刀を肌目で分類することは後世に行われたのであって、鎌倉時代などでは(美術館に展示されているように)刀全体が研がれていたことを疑うような見解もあるかもしれない。