明後日、(3月17日、3月16日の夜)衛星放送のスターチャンネルでベンハーの放送があるらしい。
時代劇の時代考証をして云々するのはヤボなことであることは承知している。いっそのこと日本の時代劇のようにデタラメの時代考証で制作されているということであればいいのだが、ローマ人が鐙(あぶみ)を用いていなかったり、けっこう細々としたところでも時代考証が合っていたりする。
日本の時代劇の時代考証がデタラメなのは現代劇でできなかったから、というような伝統があるのかもしれない。江戸時代に赤穂浪士の討入を演目にすることは禁止されていたらしい~歌舞伎の忠臣蔵は100年以上前の鎌倉時代末期のころの時代劇として演じられていたらしい。而して、歌舞伎の忠臣蔵には吉良上野介は出てこづ高師直(こうのもろなお)が出てくるらしい。
なぜ時代考証がデタラメであると推測できるかというと、おそらくストーリーは赤穂浪士の討入と似ているので切腹がでてくる~微妙なところだけれどもこの頃に切腹が行われていたか疑問がある~諸説あるみたいだけれども史実としての切腹は北条高時らが鎌倉幕府の滅亡に際して行われたのが初めてであるとされている。また、装束もおそらく江戸時代のものがそのまま用いられている可能性が高いような感じがする~鎌倉時代には足袋がなかった~日本人が足袋を用いるようになったのは戦国時代(安土桃山時代)以降であるとされている。
もちろんBENHURでも、時代考証がはっきりとしていることについて誤りではないが、表現方法が適切でないと思われるような事例もある。例えば、キリストと同時に二人が十字架にかけられていることは史料と一致している。しかしBENHURではその二人が何者なのか示していないのでキリストの弟子か何かのような印象を与えている~史料ではこの二人はキリストとは何の関係もない罪人。このシーンでピトロ(ローマの地方長官で実在の人物)が手を洗っていることは聖書の記述と一致している。映画なり小説でこのビトロの人物像をどのように表現するかでユダヤ人に対するコンセプトが異なってくるらしい~よって、それが適切であるか適切でない表現方法であるかということは評価できないのだけれども、この映画ではピトロの人物像が聖書と異なって表現されているらしい。そんなことはどうでもいいことじゃないか?とたいていの日本人、あるいはたいていの人は思うかもしれないけれど、そのことがホロコーストが行われた根拠にされていたとしたら話は別だろう。
そのホロコーストというのはアウシュビッツなんかでユダヤ人が殺害されたことだけれども、ホロコーストは歴史上の過去の出来事ではなく現在の問題でもあるらしい。イスラエルの外務省のページでもはっきりとHolocaustと表現されている(http://mfa.gov.il/MFA/ForeignPolicy/AntiSemitism/Pages/default.aspx)。現代の新鋭戦車はジェットエンジンを搭載しているタイプが多いみたいだけれど、イスラエルの主力戦車メルカバはディーゼルエンジンをフロントに搭載している。そのディーゼルエンジンはドイツ製らしい。
ローマ人の女性が若いのしかいない。スペクタクル~莫大な制作費をかけた映画で、このようなやんちゃな表現が行われていることなど誰も思いもよらなければ、ひょっとすると今まで誰もローマ人の女性が若いのしかいないことに気が付かなかったかもしれない。
ヒトのオスは若いメスを好む傾向があるらしい。チンパンジーのオスは交尾(交接・セックス)の対象として若いメスよりも中年のメスを好むという明確な傾向があることが、数十年にわたってチンパンジーを観察している女性研究者によって分析されているらしい。
ヒトはチンパンジーとくらべると多産であるがお産そのものはチンパンジーよりも重い。聖書には神が産みの苦しみを与えたと書いてあるらしい。
また、このようなことを書くのはいかがなものか?とも思うが、実はこの映画、大きな技術的な誤りがある。誤りを指摘するほどまずいことはないのだが制作年代からして監督などもすでにお亡くなりになっているだろうからあえて公開してしまうのだけれども、おそらく映画関係者ならばタイトルのスペルが違っているくらいの大きな誤りが続いているので見れば誰でも気付くはずだと思う。それは、戦車レースの競技場のシーンからなのだけれども~その以前からあったかもしれないけれど、そのシーンで大きな誤りが繰り返されている。何かやんちゃな表現なのかもしれないけれど、その誤りのためにかなり大掛かりな道具を用いていることがわかるシーンもある。
時間とは関係ないけれども名作と評される映画でも稀(まれ)に同様の誤りがある。例えば、"恐怖の報酬"でマリオがニトロを積んで出かける際に女性が懸命に止めようとしているシーンや、"サウンドオフミュージック"で家庭教師が大佐のところへ初めて訪問した際に執事と面会しているシーンなど。(これらの映画は制作年代が同じ頃で)当時は、このような表現に何か意味があったのかもしれないけれど、単純な誤りであった可能性もある。"華麗なるギャツビー" でも誤りが多い~もし単純な誤りでなく何か意味があったとしたら、アメリカで最も読まれている小説の一つである"華麗なるギャツビー"の映画化でこのような表現をされるのは
いかがなものかと思う。