国分寺の頃は国家仏教で、戒壇も都(中央)に置くことで国分寺を建立することのように統制を強めようとしていたとみてよい、と思う~戒壇が設けられた後の時代の国家仏教の解釈かもしれないけれど官僧(2010年 1月23日の記事)というのは一人前の坊主ではなくて、都(中央)での戒壇を経ることで太政官より戒牒を受けて官僧が一人前の坊主になるという考え方だったらしい。 奈良にある全国の国分寺の大元締めをやっていた寺の境内にある正倉院が文部科学省ではなくて宮内庁の管理になっているのは国家仏教の名残かもしれない。 制度として都でなくても勅許を得れば戒壇として成立したとしても勅許さえ得れば戒壇として十分か?というような問題もあるかもしれない~(京都の)叡山の仏教は奈良の仏教とはだいぶ異なるイメージがある。 国家仏教ということになると律令制との絡みが注目されるかもしれないけれど、中国文化の導入という意味もあるような感じがする。おそらく当時の寺は医療や天文など多くの先端技術の担い手だったと思う。そして当時、それらの先端技術は日本よりも中国のほうが進んでいたのだ。 日蓮の場合は奈良や京都の仏教に対抗するかたちで独自に戒壇を行っていたみたいだけれど、日蓮自身も戒壇に勅許は得たかったみたいだ~後に、日蓮が望んでいたということで創価学会などにより国立戒壇の主張が行われている(2009年11月22日の記事)。 日蓮は勅宣(勅許)と並べて御教書と言っているらしい。この御教書とは、おそらく鎌倉幕府による関東御教書のことだと思う。 日本で戒壇が設けられたのは、全国の国分寺の元締めをやっていた奈良の寺の大仏殿宝前だったらしい~大仏の造営や国分寺の建立が国の事業として行われたように戒壇を設けることも国の事業として行われたのだろう~(京都の)叡山の戒壇はそうではない。 これは、制度そのものが律令制にもとずくものであり、国府あるいは国衙が物理的に消滅していく過程での叡山の戒壇への勅許であったような感じがする。 日蓮の場合も叡山のように国の事業として戒壇を設けることではなく、勅許を望んでいたみたいだ。 さらに日蓮の場合には御教書も望んでる~このことから鎌倉幕府が五山に限らづ仏教とかかわりをもっていた可能性が推測できる(2010年 1月 1日の大仏の記事)。 このこと(鎌倉幕府が五山に限らづ仏教とかかわりをもっていたこと)は、日蓮宗系の古文書をみれば簡単にわかると思う。 阿弥陀仏の仏像は平安時代(鎌倉時代の前の時代)から一定の様式で大量に造られている。日本の現行通貨の10円玉にある建物(平等院というらしい)には大量生産の様式で造られた阿弥陀仏の仏像がまつられているらしい。よって、最も大きな可能性として、鎌倉に造営された大仏がそのような浄土思想にもとずいて阿弥陀仏となったことが推測できる。 鎌倉幕府が五山に限らづ仏教とかかわりをもっていたとすると、江戸幕府が浄土宗系の宗派を取り込もうとした以上に鎌倉幕府は鎌倉に造営する大仏を阿弥陀仏にすることで浄土宗系の宗派を取り込もうとした可能性もまったくなきにしもあらずかもしれない。 奈良時代に同じ大仏を造営する程ではないにしても大仏の造営はやはり大プロジェクト~えろぅ銭かかりまんねん。鎌倉に造営する大仏を阿弥陀仏にすれば鎌倉幕府の北陸や西国での支配が確立できるとすれば、それがどのように大きなプロジェクトの要の話であったとしてもお釈迦にならなかったということだろうか? 因みに、初期の仏像はヘレニズム文化の影響を受けているとされているらしい。ギリシャの大理石の人物像、(3Dプリンタのない時代に)あの技術で伝承されていた釈迦の姿を像にしたのが最初の仏像であるとされているらしい。